フランス革命という激動の火蓋を切って落としたバスティーユ襲撃から今日で235年。

人民の自由や権利の獲得を求め、輝かしく美しい理念のもと起きた革命。今のフランスの礎を築いた革命。『ベルサイユのばら』に出会って以来、フランス革命にどハマりして感化されまくったこともあり、革命はわたしのなかで人類史上もっとも輝かしいと思っているレベルの出来事でもある。

革命は輝かしい一方で血で出来た泥沼でもあるけど、人間ドラマもめちゃくちゃあるし、何より(実態はどうあれ)自由と平等という理想に向かって社会が動いていたという事実がよくて、**「18世紀のパリに生まれて革命に参加してシトワイエンヌ(市民)と呼ばれたかった…!というか前世はそうだったと信じたい」**と思うくらい最高なので、革命のおたくを増やしたいと思って、革命記念日を契機に革命についてまとめてみることにした。

ちなみに、一般的に革命は、バスティーユ牢獄が襲撃された1789年7月14日からナポレオンがブリュメール18日のクーデターで政権を掌握する1799年11月9日までとされているが、本当に革命が革命らしかったのはロベスピエールが失脚したテルミドール9日のクーデターが起きた1794年7月27日までである。

そのためか、J・ミシュレの名著『フランス革命史』や、革命200周年を記念して作られた映画『La Révolution française』もロベスピエールの失脚と共に終わっている。わたしも同様に、革命はロベスピエールの死と共に終わったと思っている。

それにナポレオンが戦争に強かったのはフランスにとっておそらくいいことだったし功績は認めるけど、心の狭いわたしには彼が皇帝になったことがどうしても許せず、彼のことを話すと罵詈雑言だらけになりそうなので、ここでいう革命とは、1789年7月14日から1794年7月27日までの5年間のこととしたい。

目次

革命はなぜ起き、どのように進行し、いかにして終わったのか。

時代背景

革命の原因はひとつではない。革命前夜、フランスは複数の問題や火種を抱えており、それが相互的に作用し、革命は勃発して進行した、とわたしは考えている。

まず第一に、啓蒙思想家が不満を溜めていたことがある。フランス革命は、ルソーを中心とした啓蒙思想家が説いた理念の元に行われたものであり、革命家の多くも啓蒙主義的思想の持つ若者だった。

歴史家のロバート・ダーントンによると、彼らのような若い啓蒙思想家が革命に向かったのには、当時の社会構造に要因があったという。

啓蒙思想は、最初は既存体制に対するアンチテーゼとして形成された。この時期に活躍したのが、モンテスキュー、 ヴォルテール、ルソ一たちだ。

彼らの功績により啓蒙思想が広がったことで、彼らより二まわりほど若い第二世代は、アカデミー・フランセーズの会員に選ばれたり、文筆業で成功を収めたりするようになった。これにより、反体制的だったはずの啓蒙思想家が、体制側となり保守化するというねじれが起きる。

そして、彼らのように文章で身を立てようとした、さらに若い世代が第三世代の啓蒙思想家だ。しかし、社会のトップ層はすでに第二世代によって埋まっており、彼らの多くは、売れそうなものならなんでも書く業者、ダーントン曰く“ボヘミアン文学者”となる。

自分の才能を正当に評価しない社会や、特権層と化した第二世代に対する不満を持った彼らは、政治や社会に対する過激な批判を書くようになった。

知的階級においてこうした動きが発生するなか、王家の威信も確実に低下していた。王家に決定的な傷をつけたのが、革命が起きる4年前、1785年に起きた『首飾り事件』だ。

これは、ジャンヌ・ド・ラ・モット伯爵夫人が「王妃に渡すため」と偽って、王妃に取り入りたいと考えていたロアン大司教に高価なダイヤモンドの首飾りを購入させ、それを騙し取ったという詐欺事件である。

もちろん王妃は何も関与しておらずただの被害者なのだが、当時のフランスではこれは王妃の陰謀として受け取られ、すでに悪評の多かった王妃の評判をさらに落とした。さらに、無罪となったロアン大司教を王が左遷したことにも批判が集中し、王家そのものの評判も大きく傷つけた。革命初期を主導したミラボーは、**「あの事件は大革命の序曲だった」**と述べている。