
先月、参加している文学サークル「お茶代」で、「生まれ変わったらなりたいもの」という課題が発表された。
生まれ変わったらなりたいもの。19世紀のブルジョワの娘。哲学者や文学者の娘。18世紀の貴族の娘。なりたいなあと思う人間像はいくつか出てきたけど、どれもあまりしっくりこなくて、考えがまとまらなかった。
生まれ変わりたいものは自分にはないのかもしれない、と思っていたのだけれど、まさに少し前に、自分には強烈になりたいものがあったことに気づいた。
ヨーロッパ人、もっと言うならフランス人だ。
国籍はもちろんほしいのだけれど、そういうことではなくて、もっと内面的な、根幹的な部分でフランス人になりたい。
「異文化を知るためには、その文化背景を知ることが必要だ」ということはよく言われる。もちろんそれは紛うことなき事実でとても重要だ。でも、わたしはそういう文言を見るたびに、どこか自分の求めているものと違うような小さなズレを感じていた。
わたしがしたいのは、フランスを、ヨーロッパを理解することではない。その思想を内面化することだ。極端な話をすると、理解なんてどうでもいい。ただ、彼ら彼女らと同じように物事を見たい。彼らと同じように世界を切り取りたい。同化したい。いっそフランスの土になりたい。
別の国や地域に生まれたものとして、客観的な視点でその国を切り取ることもとても意義があることだとは思う。むしろ絶対にそちらの方が意義がある。でもわたしは、同化したくて、フランス人になりたくて仕方がない。彼らと同じものの見方ができないことが悲しくて悔しい。毎日ヨーロッパ人に生まれなかったことを呪っているし、完全にヨーロッパとフランスへの憧れを拗らせている。我ながら感情が重すぎて気持ちが悪い。なんでこんなに好きなんだろう。絶対に前世はフランス人だったんだ。
閑話休題。精神的に(そして国籍的にも)フランス人になるためには、まずはなによりも言語が必要だ。言語は思考に確実に影響を与える。特に日本語は、インド・ヨーロッパ語族に属するヨーロッパ諸語とは言語構造がまったく違う。言語学には明るくないので詳しくはわからないが、考え方や論理の導き方に大きな違いをもたらしているはずだ。
だからとにかく語学を学んで、日本語を介さずにフランス語で物事を考えられるようにならなくてはいけない。道が遠すぎる。
そしてもうひとつの壁が、キリスト教だ。 個人的にはキリスト教の世界観は大好きで、絶対に死んだらキリスト教式のお葬式をしてもらいたいと思ってはいる。でも、キリストが復活したことを心から信じられているかというと自信がない。それにそもそもわたしは仏教と神道の国で育ったし、家も真言宗でキリスト教とは無縁だった。
だから、キリスト教の世界観を表層的に理解したり、聖書に親しんだりすることはできても、もっと根底のキリスト教的価値観を完全にしみ込ませることができていない。
この生まれ変わりの話にしたってそうだ。 聖書にはどこにも生まれ変わりのことなんて書いていないのに、生まれ変わりなんてないはずなのに、仏教の輪廻転生の世界観に触れて育ったわたしは、抵抗なく生まれ変わりのことを考えてしまうし、「前世ではフランス人だったに違いない」なんてことも言ってしまう。
だからもう生まれ直さないと、わたしがなりたいフランス人になることなんて無理に近いんだと思う。いくらキリスト教を、語学を、西洋哲学を、フランス文化を勉強したところで、この年になるまで日本にいた時点で完全なる内面化なんてきっとできない。でも、生まれ変わりに期待した時点でキリスト教的価値観が身についていなくて仏教的価値観に捉われていることになり、わたしの目標とする姿からは遠ざかる。生きてるうちには難しく死んでからを願うことはできない。絶望しそうである。フランスへの執着を捨てたい。
でもやっぱり、わたしはヨーロッパとフランスが大好きなので、生まれ変わったら絶対に、いや生まれ変わらなくても何が何でもフランス人になりたい、と思いながら勉強を続けるのである。