「議員になるのは純血の日本人がいいよ」

親類の集まりでふと親戚がこぼした言葉に、言いようのない気持ち悪さを覚えた。ちょうどその数日後には、「100%日本人である自身」というあるスポーツ選手の発言が批判を浴びていた。

こういう言葉を見聞きするたびに、わたしはナショナリズムの力を感じて、複雑な気持ちになる。ここでわたしが考えるナショナリズムとは、自分の生まれ育った国への愛や帰属意識のようなものだ。

もちろん、ナショナリズムにはいい面もあるし、ナショナリズムが人種的な差別と必ず結びつくわけではない。でも、そうした言説の背景に、ナショナリズムがあることは確かであるように思う。

とはいえ、今回ここでしたいのはナショナリズム批判ではなくて、わたしの心にずっとある疑問の答えを探ることだ。それは「なぜただ偶然生まれただけの場所に、そんなにも愛着が持てるのだろう」という疑問。もっと言えば、「なぜわたしは自国に愛着を持てないのだろう」という疑問だ。

わたしの親類にしろ、件のスポーツ選手にしろ、そのアウトプットの形が歪んでいるようにわたしには見えるけれども、きっと日本への愛とか誇りがあるからこそ、ああいう発言が出てくるのだと思う。

それはきっと、わたしからは永遠に出てこないであろう言葉だ。それは単に差別に反対だからというわけではなくて(もちろん差別には反対しているけれども)、そんな言葉を発するほど、ただ偶然生まれただけの国にそんな強い想いを持てないからだ。

ナショナリズム研究の古典とも言える『定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行』で、著者のベネティクト・アンダーソンはこう書いている。

偶然を宿命に転じること、これがナショナリズムの魔術である。

『定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行』 P34 /書籍工房早山

どうやら、わたしにはこの魔術が効きにくいらしい。この愛国心の希薄さはわたしにとってアイデンティティでもあり、コンプレックスでもあるように思う。

別にこれが自分だし、今さら愛国心を持ちたいとは思わないけれど、スポーツの大会で盛り上がっているのを見たり「日本人として〜」みたいな発言を耳にすると、愛国心がないことに対する後ろめたさとか日本社会に馴染めてないなという劣等感を持つことはある。

後者に関しては、たまたまここに生まれただけなのに勝手に一緒に括って勝手に何かを背負わせんな!みたいな反発心もあるけども。

ところでこういう、自分に何かかが欠けてることをコンプレックスに感じながらも、欠けてるピースを埋めたくないみたいな天邪鬼さってなんなんでしょうね。

どうしてわたしはこうなったのだろう。「ちゃんと国を愛している」彼らとわたしの差は何なのだろう。

そのシンプルな疑問から、「ナショナリズムの魔術」が効く人間と効かない人間の差異を生むのは何なのかを自分なりに考えてみたので、思考の過程をここに書き残しておきたいと思う。

目次

まずは本を読んでみた

今回ナショナリズムについて考えるにあたって、まずは冒頭でも紹介した『創造の共同体』を読み返した。といっても前回も今回も難しかったので、読み解きが甘いかもしれない。